cogito, ergo sum

ティーンエージャーが日々考えたことを淡々と綴っています

人の内側を覗く

もちろん内視鏡で臓器をみるとか胃カメラを口から突っ込むとかではない。人の思考をその行動や言動から知る、ということだ。絶えず人と接する社会。私は気が付かないうちに人との間に心の距離を置いている。それが多くの人にとって普通であるだろうし、比較的人と心の距離が近い人でも踏み込んで欲しくない域というものはあるのではないだろうか。そんな状況で自身の興味の赴くままに人の内側を覗くのは至難である。無理に踏み込もうとすれば、最悪は嫌がられたり逃げられたりするだろう。だから上辺だけの関係やただの友達では人の表面しか見えないことがほとんどだし、自分も表面しか見せていない。

ある時、私はどこまでも深く知りたいと思える人を見つけた。いままでのように表面だけの関係で終わらせたくないと思った。幸いなことに彼もその気だったから、心の距離をなくしても許される関係になることにした。そのとき私は、かつて理解できなかった「付き合う」を理解した。付き合ってしまえば相手を知ろうとすることは寧ろ歓迎される。もう随分と彼と時間を積み重ねてきた。今となっては彼のことを沢山知っていても尚、興味が湧くようだ。これは人の奥深さ故なのか、それとも彼特有の奥深さなのか、はたまた私の気持ちの持ちようなのか。どうであれ「付き合う」を見つけられた気がするので満足だ。私には彼ほど興味をもてる相手がそう簡単に出てくるとは考えられないし、彼が私に飽きるまで暫し寄り添うとしよう。

 

 

人間が人間であるとは

ある人のツイートをみて、人間が人間であることはどうやって説明するのだろうと思った。人間を主観で定義してみたい。

(私は人間だから客観視には限界を感じる。西洋のような神の概念は人間を客観視するものではあるが、人間が考えつく神など所詮神ではない。神を人間の想像を超える視点、超客観を持つものであると定義するなら、人間にできるのはその存在を仮定することまでであると思う。)

 

まず人間の本質はどこにあるのか

私は死んだ人間は見た目こそ人間でも、実際はかつて人間だった塊にすぎないと思うし、精巧に作られた人形は勿論人間ではない。内面が人間であることは人間として必須だ。

ならば内面だけが人間で外面が人間でない場合はどうだろう。非現実的な例えになるが人間の心を持った獣や機械があてはまる。これらも人間とは言い難い。いくら人間だと言い張った?ところで誰も相手にしないだろう。外面が人間であることも人間として必須だ。つまり人間の本質は外面も内面のどちらも人間であることにある。(ここまで書いて説明するまでもなかった気がした)

(脱線するが、クローン人間が人間であるかどうかはよく議論される問題だ。きっとクローン人間は見た目も中身も人間。人工的に作られたかどうかはつくった人にしかわからないだろう。上で述べたことを基準とするなら、クローン人間はれっきとした人間である、と結論したい。)

 

ここで人間の外面、内面とはどんなものかという問題に突き当たる。

 見る人が人間にみえると思えば外面に関しては人間であるといえる。同様に自身が人間だと認めるならそのひとは内面に関しては人間であるといえる。外面と内面がどちらも人間であることが人間の本質だったから、人間であるという共通認識が自身と相手との間で成り立っていれば人間であるといえる。

 

しかしながらその共通認識はどの相手に対しても同じではない可能性がある。そのような状況下においては人間ではなくなる、ということだ。

 

人間であるという状態は案外不安定なものだ。他の自身を表す要素についてはなおさらである。いつも当たり前だと思っていることでも自身の手に及ばないところで覆されていたら、そうではないことになっていることだってある。

自身がどう思うかも基準の一つだがそれだけでは足りない。自身がどのように相手に思われるかで自身は決定する。少しでも相手に自身がどう思われるかコントロールするためには、自身が相手にどう見られたいか発信していかなくてはならない。

真に人間であるためにも。

 

 

 

 

 

 

 

 

この世はそう、諸行無常。

死にたい、とことあるごとに口にする人がいる。私も例外ではないが、死にたいの理由の隔たりを感じざるを得ない。(過去の記事を参照)

 

何か自分にとって良くないことが起きて、それから逃れたいと思ってそんなことをいうのなら、死にたいというのだろうか。ならば精神的苦痛から逃れたい=死にたい?大体私は何が不満で思い通りにいかないのか把握できないから漠然と死にたいと思ったりしていた(過去形)。解決策が見つかり、全て自分の思う通りにことが進めば言わなくなるだろうが、それがきっと現実的にすぐ解決するのは不可能だから、死ねば全てリセットされる希望と幻想をもって死にたいが使われているように思う。

 

でも、死が全て解決するなら人間はみな死んでいると気づいた。

 

その精神的苦痛を克服することができるのもまた、生きているからであることを忘れてはいけないと思う。あぁそういえば人間には「忘れる」便利な機能が備わっているし、この世はそう、諸行無常。何ごともそのまま留まっているなんてないのだ。これを活用しない手はない。死んだら克服どころかそれが自身の生の永遠となる。

私は死ぬなら、永遠に今のままで居たいと思うときがいい。でもそんなときはこないだろうな、人間とは欲張りなもので今以上を求めていきたくなるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸せを目指すだけが人生じゃない

Emily Esfahani SmithさんのTED TALKSをPodcastで拝見しました。彼女の人生観についての12分ほどのスピーチです。

 

「幸せを目指すことだけが人生じゃない、人生において生きがいを見いだすことが最も必要だ。」

というのが彼女の主張です。(結構端折っています。気になる人は是非見てみてください。)生きがいを見いだすことは現代社会に深く根付いた考え方であると言えます。生きがいと言えば、突然友達が言い放った印象的な一言が忘れられません。

>私の生きがいは週末のドラマしかない。(先が思いやられます...)

こんな風に、大なり小なり一人一人生きがいはありますよね。生きがいは人生の目的と言い換えられるとされていました。

しかしながら前回の記事で述べたのですが、私は個人の生きがいは一連の人生の中では無価値であると感じます。生きている限り、生きがいとしているものを失ったり、手放したりすることがあり得るからです。そこに絶対の価値はありません。現在の生きるモチベーションをあげる効果はありますが、途端に意味を失って人生に絶望する未来が容易に想像できます。え?また新しい生きがいを探せばいい?Emilyさんは幸福は気まぐれだと言いましたが、生きがいもまた気まぐれなのではないでしょうか。そんなふわふわしたものに人生の目的とまで言い切る自信は私にはないです。幸福と違って生きがいは到達することが無く、継続的である点において、人生の目的とするのに相応しいという主張はわかりますが、幸福と比べた時によりベターであるというだけです。人生の目的と言うからには客観的に見ても不動であると確信できるものであるべきです。

 

そういえば「幸せ」のフレーズが気になりました。幸せってなんでしょう?

端的に述べると、私にとって幸せとは現在に無理矢理納得するための道具のようなものです。大体これ以上頑張りたくない時に使います。今この瞬間が幸せだと思えば、今の状態からより良くする必要がないように思えます。まぁその先にあるのは停滞ではなく下降です。幸せはその言葉自体はプラスの意味を持ちますが、用いられる時はマイナスの意味を含有するのです。不気味ですね。幸せの対義語は不幸せですが、幸せを目指す時点で自身が不幸せであるかのような錯覚に陥ってしまうのも悲しいことです。以上のことから、幸せ、不幸せの概念はより良く生きるのに不必要だと思います。

 他人の人生観に触れるのは大変刺激的です(鼻血)。自身の持論に近いほどその差異に突っ込んでいきたくなります(笑)。普段生活していて人生観の話など重いと思われるので、できないのはとても残念です。そもそも、それができていたらわざわざブログに書く必要なんて無かったのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

生を謳歌せよ

特に日本人のような、宗教を深く信じない人々の間では

生きる意味は自分で見つけるものだ、とよく言われるような気がします。

ですがそれはあくまで自分だけの意味ですし、本当の生きる意味を見えなくしているだけで、一時的な生きるエネルギーを生成するだけの虚しいものではないか、と最近考えるようになりました。

つまり自分で見つける生きる意味は普遍的なものでなく、1人宗教みたいなものです。

 

生きていることは不動の事実のように思われますが、そもそも生きているということ自体が死ななければ証明できません。サンタさんが存在しないことを誰も証明できないように。

死ぬことでしか生の証明はなされない。生を肯定するには死が必要です。だとすれば生の普遍的な目的は死ぬことにあって、死こそが生の最大の目的であり生きる意味ではないかと思うのです。死によって生が在ったと初めてわかるのですから。

 

多くの人にとって、限りない無である死に向かっている現実は受け止めにくいことです。だから生きている間だけの生きる意味に囚われていて、死によっていまある生の意味が失われるのを恐れているのです。死の先にあるものがわからない故の恐怖を感じるからというのもあるかもしれません。ですが、初めから死を生の目的と受け止めていれば死を目指して歩くことに何の抵抗があるでしょうか。

いまここに存在していること、頑張っていること、全ては死のその瞬間のために。

死と生は表裏一体で結局は同じです。

貴方が私が、生きているのなら死は必ずやってきますが、死の質はすなはち生の質であることを思えば生に無気力になることはあり得ません。死の至上主義というとわかりやすいでしょうか。 死は自己の精神だけでなく、社会的な自己にその質を左右されると私は思います。自身の社会的な立ち位置が死の瞬間の充実感に影響するように思うのです。より良い死を迎えるには社会的な自己への充実感と精神的な充実感、どちらも満たしているべきではないでしょうか。

 

人は結局死ぬのだからこの生に意味など無いと考えるのはニヒリズムですね。似ていますが違います。

私も一時期ニヒリズムこそ真理だと思っていたのですが、ニヒリズムは精神的な充実感しか私には与えてくれませんでした。

ニヒリズムを徹底するなら今すぐ死んでしまった方が本当の無を得られるので理に適っています。できないのは、社会的な自分の立場を理由にそうできないと思いたかった、勇気がないで誤魔化してしまいたかったから。つまり私は社会の中に組み込まれて、そこにいることが私にとって当たり前で自然だと感じていたから、実際は社会的な自己を精神的な自己より優先したのです。 社会的な自己を捨てきれない私には、ニヒリズムは不足でした…。

ニヒリズムに対抗し、死に最大の価値を置き生の意味とするのは、自身を内外から充実させ生に貪欲になれる一つの手段です。ニヒリズムを拗らせて生きている人に是非参考にして欲しいものです。

 

 

 

Twitterの文字数制限からの逃避は何をもたらすのか

 

ブログ始めました

きっかけはTwitterの文字数への不満です。

140文字って相手にものを伝えるには少なすぎませんか?

 

日々考えていることは文字に書き起こしきれないほど多いのに、一投稿たった140文字に収めるのが勿体なく感じるんです。

私は、折角書くならもっと文字数に拘らずしっかり書いていくのが理想です。

 

(...しかし思考を整理するという意味ではTwitterのように文字数に縛られて、短い文でどれだけ情報を詰めることができるか考える方が良いとも思いますが。)

 

ですから、

敢えてここではTwitterで呟くには不適な(呟きにすらならないくだらないこととも言える)

私の思考

に焦点をあてていきたいと思います。

 

追記

記事のタイトルの答えは更新を重ねることでいずれわかるといいな。わかりづらいので補足するとブログを書く事=Twitterの文字数制限からの逃避としています。Twitterでの情報発信からブログでの情報発信に移行して、どう変わっていくのか楽しみです。