cogito, ergo sum

ティーンエージャーが日々考えたことを淡々と綴っています

幸せを目指すだけが人生じゃない

Emily Esfahani SmithさんのTED TALKSをPodcastで拝見しました。彼女の人生観についての12分ほどのスピーチです。

 

「幸せを目指すことだけが人生じゃない、人生において生きがいを見いだすことが最も必要だ。」

というのが彼女の主張です。(結構端折っています。気になる人は是非見てみてください。)生きがいを見いだすことは現代社会に深く根付いた考え方であると言えます。生きがいと言えば、突然友達が言い放った印象的な一言が忘れられません。

>私の生きがいは週末のドラマしかない。(先が思いやられます...)

こんな風に、大なり小なり一人一人生きがいはありますよね。生きがいは人生の目的と言い換えられるとされていました。

しかしながら前回の記事で述べたのですが、私は個人の生きがいは一連の人生の中では無価値であると感じます。生きている限り、生きがいとしているものを失ったり、手放したりすることがあり得るからです。そこに絶対の価値はありません。現在の生きるモチベーションをあげる効果はありますが、途端に意味を失って人生に絶望する未来が容易に想像できます。え?また新しい生きがいを探せばいい?Emilyさんは幸福は気まぐれだと言いましたが、生きがいもまた気まぐれなのではないでしょうか。そんなふわふわしたものに人生の目的とまで言い切る自信は私にはないです。幸福と違って生きがいは到達することが無く、継続的である点において、人生の目的とするのに相応しいという主張はわかりますが、幸福と比べた時によりベターであるというだけです。人生の目的と言うからには客観的に見ても不動であると確信できるものであるべきです。

 

そういえば「幸せ」のフレーズが気になりました。幸せってなんでしょう?

端的に述べると、私にとって幸せとは現在に無理矢理納得するための道具のようなものです。大体これ以上頑張りたくない時に使います。今この瞬間が幸せだと思えば、今の状態からより良くする必要がないように思えます。まぁその先にあるのは停滞ではなく下降です。幸せはその言葉自体はプラスの意味を持ちますが、用いられる時はマイナスの意味を含有するのです。不気味ですね。幸せの対義語は不幸せですが、幸せを目指す時点で自身が不幸せであるかのような錯覚に陥ってしまうのも悲しいことです。以上のことから、幸せ、不幸せの概念はより良く生きるのに不必要だと思います。

 他人の人生観に触れるのは大変刺激的です(鼻血)。自身の持論に近いほどその差異に突っ込んでいきたくなります(笑)。普段生活していて人生観の話など重いと思われるので、できないのはとても残念です。そもそも、それができていたらわざわざブログに書く必要なんて無かったのかもしれませんね。