cogito, ergo sum

ティーンエージャーが日々考えたことを淡々と綴っています

この世はそう、諸行無常。

死にたい、とことあるごとに口にする人がいる。私も例外ではないが、死にたいの理由の隔たりを感じざるを得ない。(過去の記事を参照)

 

何か自分にとって良くないことが起きて、それから逃れたいと思ってそんなことをいうのなら、死にたいというのだろうか。ならば精神的苦痛から逃れたい=死にたい?大体私は何が不満で思い通りにいかないのか把握できないから漠然と死にたいと思ったりしていた(過去形)。解決策が見つかり、全て自分の思う通りにことが進めば言わなくなるだろうが、それがきっと現実的にすぐ解決するのは不可能だから、死ねば全てリセットされる希望と幻想をもって死にたいが使われているように思う。

 

でも、死が全て解決するなら人間はみな死んでいると気づいた。

 

その精神的苦痛を克服することができるのもまた、生きているからであることを忘れてはいけないと思う。あぁそういえば人間には「忘れる」便利な機能が備わっているし、この世はそう、諸行無常。何ごともそのまま留まっているなんてないのだ。これを活用しない手はない。死んだら克服どころかそれが自身の生の永遠となる。

私は死ぬなら、永遠に今のままで居たいと思うときがいい。でもそんなときはこないだろうな、人間とは欲張りなもので今以上を求めていきたくなるだろうから。