cogito, ergo sum

ティーンエージャーが日々考えたことを淡々と綴っています

人間が人間であるとは

ある人のツイートをみて、人間が人間であることはどうやって説明するのだろうと思った。人間を主観で定義してみたい。

(私は人間だから客観視には限界を感じる。西洋のような神の概念は人間を客観視するものではあるが、人間が考えつく神など所詮神ではない。神を人間の想像を超える視点、超客観を持つものであると定義するなら、人間にできるのはその存在を仮定することまでであると思う。)

 

まず人間の本質はどこにあるのか

私は死んだ人間は見た目こそ人間でも、実際はかつて人間だった塊にすぎないと思うし、精巧に作られた人形は勿論人間ではない。内面が人間であることは人間として必須だ。

ならば内面だけが人間で外面が人間でない場合はどうだろう。非現実的な例えになるが人間の心を持った獣や機械があてはまる。これらも人間とは言い難い。いくら人間だと言い張った?ところで誰も相手にしないだろう。外面が人間であることも人間として必須だ。つまり人間の本質は外面も内面のどちらも人間であることにある。(ここまで書いて説明するまでもなかった気がした)

(脱線するが、クローン人間が人間であるかどうかはよく議論される問題だ。きっとクローン人間は見た目も中身も人間。人工的に作られたかどうかはつくった人にしかわからないだろう。上で述べたことを基準とするなら、クローン人間はれっきとした人間である、と結論したい。)

 

ここで人間の外面、内面とはどんなものかという問題に突き当たる。

 見る人が人間にみえると思えば外面に関しては人間であるといえる。同様に自身が人間だと認めるならそのひとは内面に関しては人間であるといえる。外面と内面がどちらも人間であることが人間の本質だったから、人間であるという共通認識が自身と相手との間で成り立っていれば人間であるといえる。

 

しかしながらその共通認識はどの相手に対しても同じではない可能性がある。そのような状況下においては人間ではなくなる、ということだ。

 

人間であるという状態は案外不安定なものだ。他の自身を表す要素についてはなおさらである。いつも当たり前だと思っていることでも自身の手に及ばないところで覆されていたら、そうではないことになっていることだってある。

自身がどう思うかも基準の一つだがそれだけでは足りない。自身がどのように相手に思われるかで自身は決定する。少しでも相手に自身がどう思われるかコントロールするためには、自身が相手にどう見られたいか発信していかなくてはならない。

真に人間であるためにも。